知的存在であるということ

修羅場の中のオアシス、現実逃避中です。
先ほどお昼ごはんを買いに近所のローソンへ。ついでに「光療法」というこじつけで、5分ほど広場へ出てひなたぼっこしながら、遊ぶ子供たちを眺めていました。

こんなにもマルチタスク可能な存在を工学的に実現するためには、世界中の科学技術を集めて一体何年あれば可能になるのでしょう。
人工知能といえば、将棋のプロ棋士に勝利をおさめたりと発展めざましいところ。
しかし、自己の存在を理解し、意志を持ち、周囲の環境を知覚し、興味対象へ注意を向け、仮説を立てて試行錯誤したり、不整地を自在に動き回り、道具を使いこなし、言葉を使いこなし、記憶することでどんどん賢くなる…そんないろんなことを、つつがなく行える存在にはまだまだ長い道のりがあるように思われます。

まあそれをやるのが多くのロボット研究者が目指すところであり、私の目指すところでもあります。がんばるぞい。

いつも自分はなんと阿呆なのかと思うネガティブ人間な私ですが、そうは言っても、こうして生きているというだけで、現在の科学技術では解明も構築もできないほど充分に賢い存在なのだと、改めて気付かされるのでありました。

さあ修羅場アゲイン!